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「わけのわからなさ」を考える

「わけのわからなさ」を考える

「わけのわからなさ」を考えることに命の本質がある。

こんにちは。アルジュナのアートディレクター樹世です。
今日は今私が読んでいる本の紹介をしたいと思います!

随分前から、深海生物の進化について興味を持ちだし、特にイカについて毎日考えていた時期がありました。
居酒屋のイカ刺しではなく、実際に泳ぐイカの姿を見たくなり、ある日、水族館に出かけました。

水槽を泳ぐアオリイカの姿を見ていたとき、目を奪われたのは彼らには「前後(まえ・うしろ)」の概念がないということでした。

よっちゃんイカはとんがった胴体が帽子みたいになっていて、その下に目と足が8本、手が2本。たこ焼きハッちゃんも同じように頭が大きくてタコっぽい口と目がくっついていて、その下に8本足。それは、人間の「こっち側」から勝手に作り出したカタチ。イカやタコは私たちにとって永遠に「わけのわからない」生き物です。そんな未知なる生き物が地球上には無数に存在しています。

そんな「わけのわからなさ」を探究することが毎日の楽しみとなった昨今。
「生物のデザイン進化論」について考える、そんな私の冒険が毎日繰り広げられています。

「『イカとは何か』とは何か」


長沼毅「死なないやつら」〜極限から考える「生命とはなにか」〜

今ちょうど読んでいる生物学者・長沼毅先生の著書。大分の友人、デザイナーの井下悠くんに教えて貰った本です。
「科学会のインディ・ジョーンズ」とも呼ばれる先生で、かつては宇宙飛行士採用試験で二次選考(準決勝)まで残るという快挙さえ成し遂げた、恐るべき冒険家。面白くないはずがありません。

まえがき

生命とは何か? かつて多くの賢者が考えあぐねてきたこの根源的な問いに、私たちはいまだに答えることができません。
ならば、極端な「エッジ」を眺めてその本質をあぶりだしてみよう、というのが本書の出発点です。
超高温、超高塩分、強度の放射線、強度の重力……
過酷な環境をものともしない「極限生物」たちの驚異的なたくましさは、過剰としかいいようがありません。
ヒトの致死量の1000倍以上の放射線に耐えるやつ、地球上に存在しない強烈な重力に耐えるやつ…思わず「その能力、いらんやろ?」とツッコみたくなります。

しかし、実はこの「わけのわからなさ」にこそ生命の本質があります。
酸化も還元もしない「不安定な炭素化合物」であるにもかかわらず、生命が地球上で40億年も続いてきた謎の答えがあるのです。
なぜ宇宙に生命ができたのか? これから私たちはどう進化していくのか?
次々に突きつけられる問いを考えていくうちに、生命についての見方がまったく変わってしまう経験があなたを待っています。
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まえがきだけで、もう面白い。
この本では、遠い存在だった生物学も物理学も「科学」というもうひとつの哲学として優しく語りかけます。「いのちとは何か」を別の角度から教えてくれる、新しい入り口が誕生しました。

本著は「ネオ・ダーウィニズム」という新しいスタイルの進化論をベースに話が展開していきます。これは、ダーウィンの自然選択説とメンデルの遺伝法則を統合した進化論です。
「キリンの首は何故長くなったのか?」という元祖ダーウィン説、これは自然淘汰と環境適応によって説明されてきましたが、こちらのネオ・ダーウィニズムはそれに「偶然に起こる遺伝子の突然変異」をプラスした考え方で「現代進化論」とも言われます。
突然変異、とは文字通り突如として生まれ出る未知なるもの。意味や原因などがない世界のお話です。

冒頭では、この2重論理を同時に考察する方法として「形而上学」を積極的に取り入れています。私が好きなイカで例えれば「イカとは何か」という(物質的な)形而下の問いに加え、「『イカとは何か』とは何か」という哲学的な問いを同時に思考する、2重論理だとこういう感じになります。

これを長沼先生は「生物圏の形而上学」という言葉で表現しています。
そうです、ほぼ哲学。「縁起の法」にも近く感じられるため仏教的なアプローチにも似てきます。

わけのわからないことに興味をもち、役に立たないことを考える。
これほど楽しい時間はありません。
そういうことが、「考える」ということの楽しさであり、人類が進化した所以だとも思います。

何かを発想するときのきっかけとして、「思想からの思想」ばかりに留まらないこと。
私のお寺の家族も言っていました。「仏教からの仏教」ばかりで学ばない。

「科学からのデザイン」
「言語学からのデザイン」
「芸術からのデザイン」
デザインという思考は、そのような広い場所で明るく楽しく考えることではないでしょうか。

他分野にわたり積極的に興味をもつ。
良いアイデアとは、そのように「意味も無いことをおもしろく」知っていくことが良いと思います。
とてもいい本です。

縄文を私のルーツとして体感する

縄文文化が日本人の未来を拓く
小林達雄 (著)

今年2025年8月22日に逝去された、国学院大名誉教授の小林達雄氏。
縄文土器の複雑な文様や土偶などの造形に縄文人の思想と物語性を読み取り、多彩な食生活や文化活動に着目。縄文時代が単純な狩猟採集社会ではなく、世界にも類を見ない独自性と豊かさを持つ社会だったと主張した、世界に誇る縄文の研究者です。

私たちの学校の教科書には、縄文時代とは文明誕生以前の「原始的人間生活」として紹介されてきました。実際その時代は

旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀頃
弥生時代 前10世紀頃 – 後3世紀中頃

弥生時代が紀元前1000年頃だとするとそのさらに1万3000年間を縄文時代と呼ぶ。
しかし1万年以上も続く時代を単なる原始生活と呼ぶのは本当に正しいのでしょうか?
そんな疑問が自然と生まれたのは、岡本太郎と縄文土器の繋がりを知ってからでした。

岡本太郎にとって縄文は、単なる過去の遺物ではなく、「芸術の根源」「日本人の原点」であり、「混沌と生命力」の象徴と語ります。1952年の「縄文土器論」で、考古学的な対象だった縄文土器を「最も先鋭化した前衛」として芸術のフィールドに引き上げました。現代の芸術や文化が失いつつある、人類と芸術の「はじまりの場所」への回帰、太郎はそれを縄文に求め続けました。

 

狩猟採集時代と農耕時代の隔たり

農耕を中心とした時代の特徴は「自然の脅威を乗り越えて」生活することにあると小林先生は語ります。
それに対し、縄文の人々の暮らしとは「自然」を「乗り越える」対象でなく「共に生きる」存在として見ていたことにポイントがあります。
自生する植物や動物を「あるものだけ採る」生き方から、人々の暮らしは変容しました。農作物の栽培力を手に入れることで、自然を管理する生活を始めました。このように自然との共生の概念そのものが変わったことが、二つの時代の境目。ここにどんな視座をおくのかが大事なようです。

腹の足しにならないものを造る

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(中略〜)今われわれは役に立つものを造ろうとして、原子力発電所を造りました。役に立つ、役に立つ、危険はないんだと。危険がないのなら東京のすぐそばに造ればいいのに、それはしない。それをまだやっています。

だからそこが面白いところですが、役に立つというものを造ろうとしたら、これは危険です。つまり、日常的な生活の役にたつものを造ろうということを言い出す人がいたら、これは危険なんです。大勢の人が賛成するでしょう。

大勢の人が賛成するということというのは、ほとんどの場合、歴史的に見ると間違いに至っています。
ソクラテスをそうやって殺したじゃないですか。太平洋戦争にも突入しました。みんなが賛成しました。先の戦争では、朝日新聞も毎日新聞も旗を振りました。誰が反対しましたか。

つまり、私がいいたいことは、腹の足しになるようなものではないものを造ったという、その縄文の面白さです。それは、やはり学ぶべきことかもしれません。

例えば、失業対策が必要だったら、みんなしてバベルの塔みたいなものを造ればいいんです。そしてそこにいろいろな芸術家が参加して彫刻を納品したりするのです。
そういう、危険じゃないこと、もうどうにもならないことを、汗水たらして一生懸命にやるんです。気が遠くなるような時間をかけて大勢の人が集まって、作り上げているものが縄文の記念物なのです。だから、縄文というのは絶対間違い無いのです。役にたつことをやろうとしなかったから。弥生時代以降は、役に立つことを集中的にやりはじめて、そして今につながって来ているわけです。

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火焔型土器を眺めていると、その造形と生命力に魅了されます。
土器や造形は実用性だけでなく、精神文化や象徴的意味を内包していると考えられていますが、いつまでも眺めてしまうその訳は「何を想い表現したのか」「何を信仰していたのか」「なぜ造るのか」という根本的なことが何ひとつ、わからないからです。

小林先生をはじめとする沢山の研究者が、遺跡を掘っても掘っても分からない。何を考え、何を目指していたのかわからない。
わたしたちはきっと、遠いどこかの時代で何かを忘れてしまったのだと思います。

小林先生は、「遺跡を調べて矛盾を見つけたとき、それは最も確信だといえる」と話しています。現代人の考え方にとって「矛盾」していることこそが、その時代の人にとっての「目的」や「思想」と一致するというのです。その暮らし、その風景、その人々に思いを馳せるしかありません。

現代の私たちは、意味のあるもの、役に立つもの、定まった規範をもって「当たり前」を生きています。
縄文の時代は、その「当たり前」を持たない、前の時代です。

このような「我々以前」の感覚的生き方に憧れ、思いを馳せる、それが縄文の特別な魅力だと思います。
今度は実際に青森あたりまで行き、縄文土器を手に取って、匂いを嗅いだり、撫でたりできるような場所を巡ろうと思っています。

わけのわからない生き物。
わけのわからない生き方。
わけのわからない歴史。

そんな、わけのわからない世界に私たちは生きています。

 

そんな「不可思議で面白い世界」に生きていることを忘れず、来年もめいっぱい冒険していきましょう!よいお年を!

↑お気に入りのイカ人形で一礼。