こんにちは!株式会社アルジュナ、アートディレクターの樹世です!
私たちの会社、アルジュナを立ち上げてかれこれ17年。
今日は、、、
家族より一緒にいる時間が長い、相棒の笹田健一(45)について書いてみようと思います。
ササダケンイチとは何者か

▲大好きな角ハイボールを異常なスピードで飲み干す笹田氏
デザインの制作会社というと、奇想天外なクリエイター集団!というイメージがあるかなーと思うのですが、我が社の社長・笹田くんはデザイナーではなく「クリエイティブマネージャー」という肩書きです。
なんだかカッコ良い横文字ですが、平た〜く言うと「営業マン」ですね。
では具体的にどのような仕事をしているかというと、
・企業の事業計画に関するマネージメント
・資金の運用やデザインに関する予算の調整
・スケジュール管理
・外注業者さんとの連絡窓口
・プロジェクトの進行管理
などが主です。(他にもたくさんやってますが。)
時にはクライアントさんの悩み相談に対応したり、ちょっとした雑用にも快く付き合ってくれる、心優しいジェントルマン。
奇想天外、破天荒なわたしとは打って変わって、「几帳面」「真面目」がウリの社長です。
早起きに強く、整理整頓が得意。一度頼んだことは絶対に忘れない記憶力の強さもポイントです。
屋根裏部屋からはじまったデザインコンビ

▲昔の写真がこれ1枚しかないという..シュールな後ろ姿。
時は遡って…
馴れ初めはというと、わたしの実家であるお寺から100mくらいの近所に実家がある笹田くんは、小学校から中学校、そして同じ地域の県立高校に進学し、高校まで同じ。ひとつ違いの「幼馴染」といっても過言ではないローカルポッセです。
私は高校を卒業し、京都の美大に進学して上京。東京から帰省し長崎に戻ってきた2007年頃に、同級生を通して再会しました。
当時は県内大手の印刷会社で営業マンとして働いていた笹田くんは、仕事終わりに私の実家のお寺に顔を出すことが増え、そのうち家族と一緒に食卓を囲むことも多くなりました。夜遅くまでわいわいと酒をのみながら難しい仏教の話に耳を傾けてくれたり、家族のお遣いに付き合ってくれたりと、家族同然のような日々を送っておりました。お寺とはもともと色々な人が出入りする場所なので、近所のおばちゃんやお坊さん達に混ざって、お寺にいる人、と認識されていたと思います。逆に、笹田くんのお母ちゃんが畑で獲れた野菜を持ってきたり、お姉ちゃんの引っ越しの手伝いをしたり、小学生だった甥っ子の勉強を見てあげたりと、私も笹田家との思い出がたくさんあります。
印刷会社の営業マンとして抱えていた葛藤
「印刷会社の中にはデザイナーがいるけど、デザイナーと連携してお客さんのためになる提案ができているのか、実感が湧かない」
そのような仕事の悩みを耳にすることが時折あり、彼の中にある仕事に対する熱量とそのギャップに葛藤する姿を垣間見ていました。
当時の笹田くんは毎日5時に起き、家から20kmほど離れた会社に通勤し、営業車に乗って一日中外回り営業をしていました。
会社では「お客様に最適なサービスを提供する」と掲げつつも会社に戻ると売り上げ数字を追われる日々。果たして自分は本当に人のために働けているのだろうか?と、企業の理念と自分のやっている仕事の内容に乖離を感じていたようです。
私たちの時代はまさに「就職氷河期」。大学の就活時期には100社に近い企業にエントリーをしていたそう。
そんな中でやっと入った企業ですから、充実した就職生活を送りたいと思ったはず。
印刷会社ですから、社内にはデザイナーが在籍しています。営業はクライアントの要件を聞き取り、帰ったらデザイナーと打ち合わせ。出来たデザインをクライアントに見せにいく。クライアントが要望を伝え、それをまたデザイナーに伝える、、、。
そんな繰り返しの中に、自分のアイデアや提案がどれだけ生きているのだろう、と。
当時の笹田くんはよく「自分はお金を運んでいるだけみたい」だと漏らしていました。
デザイナーの価値、会社が作る品質の価値、お客さんが満足してくれる喜び。それぞれが点のままバラバラになっているように感じました。
その頃私たちは28歳と27歳。
独立も転職もまだ可能性があり、まだ見ぬ未来に希望を抱いていた頃。
私はというと、長崎に帰省し、東京時代で培ったスキルを故郷で発揮しようと模索していました。
一流企業の案件を取り扱うデザイン事務所を出たことを糧にしたかったのですが、起業するノウハウも身につけず退職してしまったせいで、地元でデザインの仕事を始めようとしたのにいきなり窮地に立っていました。
何を隠そう、私には独立するには足りない点がいくつかあったんです。
まず、見積もりや請求などのデザイン費用の計算ができない、、。あと地元のデザインの相場がわからない。
デザインの提案はできてもお金の交渉ができない、といった致命的な欠点に気づいたのです。甘すぎる見切り発車オーライです。(恥ずかしい。)
なので、独立するにあたって、わたしが希望を見出したのは…笹田くんにマネージャーになってもらい、連携してデザインの会社を運営するという突飛なアイデアでした。
若気の至りとは、振り返ってみるとコワいもの無しですね。
まさか、その後のササダケンイチの人生を「デザイン」の沼に引き摺り込んでいくとは。(遠い目)
…とまあ、そういうことで、ほぼノリに近い形で笹田くんをマネージャーとしてスカウトし、2008年にデザインアルジュナの屋号を登録。
こうしてわたしたちは、お寺の屋根裏部屋でデザインの会社をスタートしたのでありました。
「仕事をもらう」ことの難しさ。
スタートしたのはいいものの、パッとした仕事には一向にありつけない毎日。
お寺の新聞を作ったり、兄や親類の名刺を作らせてもらったり、地元の商工会に参加してみたり、目ぼしい企業や官公庁に挨拶に出向いてみたり、長崎のデザイナーさんに会いに出かけたり、色々と試行錯誤しつつ、収入はほぼゼロ。
実家暮らしの私たちは、「仕事ねーなあ..」とぼやきながら、週5で飲みに出るといった始末でした。
「長崎の老舗の仕事がしたい」
「パッケージのデザインをやりたい」
「社員を入れて会社らしくなりたい」
「プロのカメラマンに仕事を頼みたい」
「年齢と同じ数の収入が欲しい」
大きな転機が訪れたのは、何年もあとの話にはなりますが、あのころ飲み屋で語り合っていたことが、今では幾つも叶いました。振り返れば麗しき青春の日々です。
アルジュナを立ち上げて2年くらいがたったころ、ある地元行政のプロポーザル案件が舞い込んできました。ここは大きく賭けに出よう、と勢いよくプレゼンにチャレンジした私たちは、めでたく案件を獲得。何より嬉しかったことは、笹田くんの古巣の会社を差し置いてお仕事をゲットしたこと。面目一新、まさにリベンジマッチの勝利でした。
やる気と団結力さえあれば、どの勝負にも勝てる!と謎の無敵感を得た私たち。そのままの勢いで乗り越え、私がかねてより所望していた「仏教関連の仕事」で、京都の東本願寺から直接お仕事を頂いたのもこの頃でした。
初めて一緒に出向いた京都出張は珍道中ながら「色々撒いてきた種が花咲いたね」と嬉しさでいっぱいでした。2009年、秋。
営業マンとデザイナーが一緒になって企画やデザインを考え、その提案がクライアントに認めてもらえた喜びは、過去営業時代に感じていた葛藤から心が晴れたかのようでした。
はなればなれの時代

▲事務所近所の中央公園で撮った記念写真。
浮いた話は少なかったにせよ、小さなお仕事をもらいながら、2人で数をこなしていく日々は続きました。
2012年、私は主人の仕事の都合で東京に移住。2年後には京都に移住。今では当たり前になった「リモートワーク」で遠距離での仕事スタイルを続けました。
「オンラインミーティング」のようなものはまだ無かった頃、今思えば、コミュニケーションの量が圧倒的に少なくクライアントの顔が見えない中でのデザインは本当に作りづらかったなと思います。
クライアントの顔も然りですが、笹田くんと私のやりとりは電話が中心だったため、意思の疎通がうまくいかず、何度もぶつかり合い、一緒に仕事の成果を分かち合うこともままなりませんでした。
外回りの営業を辛抱強く続け、お仕事をもらい見積書を提出し、私にデザインの依頼をする笹田くんの毎日。ウェブサイトの仕事が圧倒的に多かったので、遠隔でできる仕事はありましたが、パッケージや印刷物などの紙の仕事は本当にやりづらい。良い仕上がりを目指すには同じ場所で過ごし、一緒に考えてこそ叶うものだと、今になって強く思います。
笹田くんはその間、彼女と結婚し、息子を授かり、家を建て、一家の大黒柱としても成長を重ねていきます。「家族を支える」という新たなミッションを背負った我々は、仕事に向かうスタイルも少しづつ変化していきました。
仕事の数は増えても、利益が少ないままだとこの後会社を続けていくことは難しい。常に差し迫った状況ではいけない。デザインが面白くても、カッコ良くても、適正な対価をもらえなければプロではない..。いろんな思いを巡らせながら、試行錯誤は続くのでした。
アルジュナの厳しい冬の時代はいつ明けるのか。。
…つづく。

▲トレードマークのメガネは私が知らないうちにグレードアップしているらしい。
馴れ初めの話が長すぎて、2回に分けて書くハメになりました。
ではまた次回お会いしましょう!